日本の古代とは?
古代とは、文明が始まる時代です。日本では「古墳時代」「飛鳥時代」「奈良時代」「平安時代」に区分されます。
日本の古代 目次
(※時代区分や年代については諸説あります。)
日本の古代とは
古代とは、原始時代に続き中世につながる時代で、文明が始まる時代のことを意味します。
この古代に、日本の天皇家に連なるヤマト王権が生まれました。日本国の起源となった時代といえるでしょう。
日本の古代は、以下のとおり区分されます。
- 古墳時代(3世紀頃~593年)
- 飛鳥時代(593年~710年)
- 奈良時代(710年~794年)
- 平安時代(794年~1185年)
古墳時代(大和時代)(3世紀頃~593年)
3世紀頃になると、各地の有力者たちは競って「古墳」と呼ばれる巨大な墳丘をもつ墓を造営しました。そのため、3世紀頃以降の時代を「古墳時代」と呼んでいます。
この時代には、現在の天皇家にも連なる「ヤマト王権」が誕生します。そのため、この時代は「大和時代」と呼ばれることもあります。
古墳時代の特徴や主要な出来事として、以下のようなものがあります。
- 各地の有力者たちは、競って古墳と呼ばれる巨大な墳丘をもつ墓を造営しました。例えば、現在の大阪府堺市で出土した大山古墳(仁徳天皇陵古墳)などがあります。
- 3世紀から4世紀頃、近畿地方を中心に、有力な豪族たちの連合政権が誕生します。この連合政権のことを「ヤマト王権(政権)」と呼んでいます。
- 4世紀中頃から5世紀にかけて、ヤマト王権は勢力を広げ、関東・東北南部から九州までを広域を治めるようになり、王権の中で最も有力な支配者が「大王(おおきみ)」となります。
- 4世紀後半から5世紀にかけて、ヤマト王朝は、朝鮮半島の百済や伽耶国などと交流をし、新羅や高句麗との間で戦争をするなど、朝鮮半島の国々と密接な関係を持っていました。
- 5世紀頃、中国の宋書倭人伝によると、日本には5人の王(倭の五王)がおり、宋に頻繁に使節を送っていたことが記述されています。
- 中国や朝鮮半島との交流により、文字(漢字)が伝えられ、須恵器という土器の技術や馬や騎馬の技術などさまざまな技術が導入されました。
- 513年に百済から儒教が伝来し、さらに、6世紀中ごろには百済から仏教も伝来しました。
- 5世紀から6世紀にかけて、ヤマト王権は確立されていき、豪族を血縁などで氏に分け、役割ごとに姓を与える氏姓制度が設けられました。
- 古墳時代末期には有力豪族同士の政権争いが激化し、587年に物部氏を滅ぼし(丁未の乱)、592年に崇峻天皇を暗殺した蘇我氏が、王朝内で権力を握るようになります。
飛鳥時代(593年~710年)
飛鳥時代とは、飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥周辺)に宮(皇居)や都が置かれた593年(推古天皇元年)から平城京に遷都された710年(和銅3年)までの時代を指します。
飛鳥時代は、推古天皇、聖徳太子、天智天皇(中大兄皇子)、天武天皇、持統天皇などによって大王(天皇)中心の中央集権国家体制が整えられ、また、法令に基づいた律令制が導入されていきます。
飛鳥時代の特徴や主要な出来事として、以下のようなものがあります。
- 593年、崇峻天皇を暗殺し政権を握った蘇我馬子が、初の女性天皇となる推古天皇を即位させます。推古天皇は、即位後、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に立て摂政とします。
- 聖徳太子は、603年(推古天皇10年)に日本最初の位階制度である冠位十二階を定め、604年(推古天皇11年)には日本最初の成文法である十七条憲法を制定し、大王中心の国家体制の礎を築いていきます。
- 607年、小野妹子を遣隋使として中国の隋に派遣し、国交を樹立します。有名な「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」の文は、このとき日本が隋に送った国書に書かれていたものです。
- 622年、聖徳太子が亡くなります。それにより蘇我氏の権力が再び大きくなります。蘇我馬子の子である蘇我蝦夷と蝦夷の子である蘇我入鹿が権力を握ります。
- 643年、蘇我氏の専横が激しくなり、蘇我入鹿は、聖徳太子の子である山背大兄王とその一族を滅ぼします。
- 645年、中大兄皇子、中臣鎌足(藤原鎌足)らが、蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷も自殺に追い込まれます(乙巳の変(いっしのへん))。これにより、蘇我氏の支配は終焉を迎えます。
- 乙巳の変後、中大兄皇子らが政権を握ります。そして、孝徳天皇を即位させ、日本最初の元号を「大化」と定めます。
- 646年、孝徳天皇により改新の詔がなされ、以降、公地公民制、班田収授法、租庸調税制などさまざまな政治改革が進められていきます、この一連の改革を「大化の改新」といいます。
- 663年、滅亡した百済復興のために日本軍は朝鮮半島に出兵しますが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗しました。これを機に、国内の防衛が見直されました。
- 668年、中大兄皇子が天皇に即位し(天智天皇)、戸籍(庚午年籍)整備などの改革を勧めますが、671年に急死します。
- 672年、天智天皇の弟である大海人皇子と天智天皇の子である大友皇子との間で争いが起こります(壬申の乱)。大海人皇子が勝利して天皇に即位し(天武天皇)、官制改革などの諸改革を進めました。
- 686年、天武天皇が亡くなり、皇后であった持統天皇が即位します。持統天皇は、日本最初の本格的な都城である藤原京の建設を開始し、694年、藤原京に遷都します。
- 701年、持統天皇の跡を継いだ文武天皇は、日本最初の法令である大宝律令を完成させます。これにより、天皇を頂点とする官僚による中央集権国家体制が一応の完成をみたと言われます。
- 708年、日本で最初の流通貨幣と言われる和同開珎が発行されました。また、私的に貨幣を鋳造することを禁止する私鋳銭禁止令も発布されました。
- 飛鳥時代は、蘇我馬子や聖徳太子が仏教を保護したため、飛鳥文化と呼ばれる仏教文化が開花しました。代表的建造物として、法隆寺や飛鳥寺などがあります。
奈良時代(710年~794年)
奈良時代とは、平城京(現在の奈良県奈良市・大和郡山市)に遷都された710年(和銅3年)から平安京に遷都された794年(延暦13年)までの時代を指します(諸説あります。)。
奈良時代には、飛鳥時代から進められていた律令制が整備されていきます。また、天平文化と呼ばれる華やかな貴族文化が発展します。
しかし、その反面、、朝廷内では貴族間の権力闘争が繰り広げられ、その中から藤原氏が力を持つようになります。農民は重税に苦しめられ貧困化していくようになります。
奈良時代の特徴や主要な出来事として、以下のようなものがあります。
- 710年、中国の都長安を模して造営された平城京に遷都されます。そして、平城京遷都に功績のあった藤原不比等(藤原鎌足の子)が台頭してきます。
- 712年、古事記が編纂されます。また、720年には日本書紀も完成します。天皇が天照大御神の直系であることを強調し、天皇の権威を正当化することに狙いがあったと言われています。
- 723年、藤原不比等が亡くなった後に政権を握った長屋王(天武天皇の孫)は、朝廷の財政難を改善するため、三世一身法という開墾促進政策を施行しました。
- 729年、藤原不比等の4人の子(藤原四兄弟)の讒言によって、長屋王は自殺に追い込まれ、以降は藤原四兄弟が政権を握ることになります。
- 737年、天然痘が大流行します。多くの民が亡くなり、また、藤原四兄弟もこの天然痘にり患して相次いで亡くなります。
- 740年、藤原四兄弟が亡くなった後、皇族出身の橘諸兄が政権を握ったことを不満とした藤原広嗣(藤原四兄弟の1人宇合の子)が反乱を起こしますが、敗死します(藤原広嗣の乱)。
- 740年~745年、藤原広嗣の乱に動揺した聖武天皇は、5年間で5度の遷都を行いますが、最終的には平城京へと戻ります。
- 741年、度重なる疫病、災害、遷都などで疲弊した人民の不満を鎮護国家の思想により社会の動揺をしずめようと考えた聖武天皇は、国分寺建立の詔を発し、各地に国分寺を建立させます。
- 743年、聖武天皇は、盧舎那大仏造立の詔を発し、大仏の鋳造が始まります。この大仏建立には、仏教僧の行基も協力しています。大仏は749年に鋳造され、752年に開眼式が行われて東大寺の本尊として安置されることになります。
- 743年、橘諸兄は、墾田永年私財法を施行します。荒地を開墾すればその耕地を私有してよいという法令です。しかし、これにより貴族、寺社、地方豪族などの大規模私有地が増大することになり、後の荘園になっていきます。
- 757年、橘諸兄を追い落として実権を得た藤原仲麻呂(藤原四兄弟の1人武智麻呂の子)に不満をもった橘奈良麻呂(橘諸兄の子)が反乱を起こそうとしますが、失敗に終わります(橘奈良麻呂の乱)。
- 764年、恵美押勝(藤原仲麻呂から改名)は、孝謙上皇の寵愛を得て台頭してきた僧の道鏡と争いますが、これに敗れて敗死します(藤原仲麻呂の乱)。
- 765年、道教は太政大臣禅師となり、翌年766年には法王となります。絶大な権力を手に入れた道教ですが、その後、770年には失脚し左遷されます。
- 784年、桓武天皇は、山背国の長岡京(現在の京都府長岡京市周辺)に遷都します。
- 奈良時代には、中国(唐)に遣唐使が9回派遣されました。留学生や学僧も一緒に派遣され、日本に当時最先端の文物が多く持ち込まれました。吉備真備や空海、最澄もこの遣唐使団に加わっていました。
- 奈良時代の文化は天平文化と呼ばれ、唐との交流や仏教の影響を色濃く受けた貴族文化です。正倉院宝庫などが有名です。また、万葉集や懐風藻などの詩歌も生まれました。
平安時代(794年~1185年)
平安時代とは、平安京(現在の京都府京都市)に遷都された794年(延暦13年)から鎌倉幕府が成立した1185年(文治元年)までの時代を指します。
平安時代が古代に属するのか中世に属するのかについては争いがありますが、ここでは、一応中世に属するものとして扱います。
平安時代は、政治的権力が、天皇から上流の貴族へ、そして上流貴族から新たに登場した武士へと移り変わっていった時代です。以降、700年近く続く武士政権の始まりの時代とも言えます。
平安時代の特徴や主要な出来事として、以下のようなものがあります。
- 794年、桓武天皇が平安京に遷都しました。以降、明治時代に東京に遷都されるまで、この平安京が日本の都となります。
- 797年、桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、東北地方で反乱を起こした蝦夷と呼ばれる人々の鎮圧を行わせました。
- 桓武天皇は、飛鳥時代以来の律令国家体制を引継ぎ、これを継続させるための政策を行いました。
- 810年、桓武天皇の跡を継いだ平城天皇は3年で弟の嵯峨天皇に譲位し自らは太上天皇(上皇)となりました。太上天皇は挙兵を目論みますが、嵯峨天皇が阻止し、太上天皇の寵姫であった藤原薬子に責を負わせて自殺させました(薬子の変)。
- 薬子の変以降、嵯峨天皇の側近であった藤原北家(藤原四兄弟の1人房前を祖とする家系)の藤原冬嗣が権勢を得ます。他方、薬子の出身である藤原式家(藤原四兄弟の1人宇合を祖とする家系)は没落します。
- 858年、冬嗣の子である藤原良房は、人臣で初めて清和天皇の摂政に任ぜられ、墾田開発を促進し、人頭課税から土地課税に転換する政策を推進しました(貞観の治)。
- 876年、藤原義房の子である藤原基経は摂政に任じられ、884年には事実上の関白に任じられます。
- 藤原義房以降、摂政・関白の地位は基経の子孫である藤原北家(藤原四兄弟の1人房前を祖とする家系)嫡流のみによって世襲されることになります。藤原北家が摂政・関白として政治を主導する摂関政治の始まりです。
- 901年、宇多天皇の下で藤原時平とともに太政官筆頭として政権を運営していた菅原道真は、時平と対立するようになり、大宰府に左遷されました(昌泰の変)。
- 909年、藤原時平が死亡し、その弟である藤原忠平が太政官の首班となります(後に摂政、関白)。忠平は、土地課税政策を推進し、地方官僚である国司などの権限を強める政策を展開しました。
- 忠平の時代から律令国家体制は放棄され、新たに王朝国家体制へと移行していきます。また、忠平の代で、摂関政治が本格的に成立したと言われています。
- 地方官僚の権限強化によって、地方官僚として赴任した貴族たちは、土地の豪族と結託して私財を蓄えるようになり、後の承平天慶の乱につながっていきます。
- 地方の有力者たちは、国司の横暴に対抗するため、武装化するようになります。彼らは「武士」と呼ばれるようになります。
- 武士たちは、各地の下級貴族などを棟梁として秩序関係を築き、「武士団」を形成していきます。その中で台頭してくるのが、平清盛を輩出した平氏と源頼朝を輩出した源氏です。
- また、地方領主たちは、自身の領地を国司らから守るため、有力貴族などに土地を寄進し庇護を求めるようになります。その結果、土地が有力貴族、特に藤原摂関家の荘園に集中していくことになります。
- 939年~940年、平将門が関東で反乱を起こし、関東8か国を制圧して「新皇」を名乗ります。940年に将門が討ち取られるまで反乱が続きました(平将門の乱)
- 939年~941年、平将門の乱とほぼ同じころ、藤原純友が西日本で反乱を起こします。これも941年に純友が討ち取られるまで反乱が続きました(藤原純友の乱)。平将門の乱と藤原純友の乱を併せて承平天慶の乱と呼んでいます。
- 967年、藤原実頼が関白・太政大臣に任じられ、後に准摂政に任じられます。以後明治になるまで、摂政・関白は基本的に臨時職ではなく常設化されるようになります。
- 995年、藤原道長が左大臣に任じられ、政治の実権を握ります(1016年に摂政)。この道長と子の頼通の時代が、藤原氏全盛の時代と言われています。
- 1028年~1031年、平忠常が房総で反乱を起こします(平忠常の乱)。藤原頼通は反乱の鎮圧に手を焼き、武士の棟梁であった源頼信に鎮圧を命じます。頼信はこの反乱を鎮圧し、中央政治への武家台頭のきっかけを作ります。
- 1051年~1062年、陸奥国の阿部氏と国司の争いに端を発して戦争となります(前九年の役)。源頼信の子である源頼義が、出羽国の清原氏と結んで安倍氏を滅ぼして終結します。
- 1068年、藤原氏を外戚に持たない後三条天皇が即位します。これにより、藤原氏による摂関政治は終了します。
- 1083年~1087年、前九年の役で勝利した清原氏で内部紛争が起き戦乱となります(後三年の役)。この戦で勝利した清原清衡(藤原清衡)は、奥州藤原氏の祖となります。
- この戦で活躍した源頼義の子である義家(源頼朝の父)は、朝廷からは冷遇されましたが、東国における源氏の名声を高めます。このことが、後の鎌倉幕府の礎になりました。
- 1086年、白河天皇が譲位し、上皇となります。白河上皇は、上皇となった後も政治の実権を握り続けます。これを院政といい、院政を行う上皇を治天の君といいます。
- 源義家は、白河上皇に抜擢され、出世を果たします。また、伊勢平氏の棟梁であった平正盛も、白河上皇から信頼を得て台頭してきます。
- 白河上皇は、摂関家にも介入してその勢力を抑えることに成功し、専制を敷いていきます。この院政は、白河上皇に続く鳥羽上皇、後白河上皇の時代にも引き継がれていきます。
- 1108年、源義親が反乱を起こします(源義親の乱)。平正盛がこれを鎮圧し、朝廷内で平氏勢力が源氏勢力を上回っていきます。
- 1156年、朝廷内で後白河天皇と崇徳上皇が対立し、戦乱となります(保元の乱)。この戦で後白河天皇が勝利し、後白河方についた源義朝と平清盛は、政治の中枢にかかわることになります。
- 源為義(源義家の孫)や平忠正(平正盛の子)は崇徳上皇方につき、源義朝(為義の子)、平忠盛(正盛の子)とその子清盛は後白河天皇方につきました。源氏も平氏も万一に備えて双方に戦力を分けていたのです。
- 1159年、後白河天皇の側近であった信西と藤原信頼の対立から戦となります(平治の乱)。この戦で、平清盛は、藤原信頼とそれに味方した源義朝を討ち取って後白河上皇の側近も一掃し、清盛の時代が始まります。
- 平治の乱以降、実権を得た平清盛は、朝廷の要職をことごとく平家一門で固め、院政は事実上崩壊します。また、中国(宋)との貿易で得た莫大な利益を元手に政権運営を支配していきます。
- 1167年、平清盛が太政大臣に任じられ、平氏政権が確立されます。
- 1179年、平清盛と後白河法皇の対立が激しくなり、清盛が軍を率いて京都を制圧し、後白河法皇を鳥羽殿に事実上幽閉します(治承三年の政変)。
- 1180年、平家に反発した以仁王(後白河上皇の子)が、源頼政の勧めに従って、平氏追討の令旨を各地に発しますが、挙兵前に発覚し討ち取られます。ここから、治承・寿永の乱と呼ばれる内乱の時代が始まります。
- 伊豆に流罪となっていた源頼朝(源義朝の子)も挙兵し、関東の武士団(多くは坂東平氏)の支持を得て、鎌倉を制圧して根拠地とします。
- 1181年、平清盛が病没し、子の平宗盛が跡を継ぎました。また、この頃には、高倉上皇の崩御に伴い、後白河院政が再開されています。
- 1183年、各地で源氏勢力の挙兵が続く中、源義仲(木曽義仲)は、倶利伽羅峠で平家軍を破り、京を制圧します。平家方は、安徳天皇や三種の神器を持って西国に逃れます。
- 1184年、源頼朝の命を受けた弟の源義経が、源義仲を破り、京を制圧します。
- 1185年、源義経・源範頼らが、壇ノ浦で平家軍を破って平家を滅亡させ、治承・寿永の乱は終結します。頼朝は、朝廷から守護・地頭の任免権を承認され、全国の軍事権・警察権を掌握します(文治の勅許)。
- 平安時代には、仏教が興隆します。最澄が天台宗を、空海が真言宗を開きます。また、仏教と日本古来の信仰が融合した神仏習合という独自の宗教構造が生まれます。平安時代末期には、新たに浄土教が生まれます。
- 平安時代初期の文化は、菅原道真の進言によって遣唐使が廃止されるまで、中国(唐)の影響を強く受けていました(弘仁・貞観文化)。
- 平安時代の中期以降になると、日本独自の文化が発展していきます(国風文化)。
- 文学においては、平仮名・片仮名が発明され、古今和歌集、竹取物語、清少納言の枕草子や紫式部の源氏物語などの国文学が生まれました。
- 絵画では、大和絵が描かれるようになり、鳥獣戯画や源氏物語絵巻などがあります。建築においても、平等院鳳凰堂などがあります。また、今様という歌謡が流行し、今様を集成した『梁塵秘抄』が編纂されています。