日本史の流れ・全体像
日本史を勉強するに当たって、まずは全体像をつかむため、大まかな日本の歴史の流れを年代順に追っていきます。
日本史の流れ・全体像 目次
- 原始時代
- 古代
- 中世
- 中世~近世:安土桃山時代(1573年~1603年)
- 近世:江戸時代(1603年~1868年)
- 近代:明治維新~第二次世界大戦(1868年~1945年)
- 現代:第二次世界大戦終結以降(1945年~現在)
※年代については諸説あります。
原始時代
人類が誕生し、まだ原始的な生活を営んでいた未開の時代を「原始時代」といいます。日本の場合は、大陸から人類が日本列島に移住してきたときから始まります。
世界史的には、原始時代は「旧石器時代」と「新石器時代」とに区分されますが、日本の場合、新石器時代は「縄文時代」と「弥生時代」に区分されます。
つまり、日本の原始時代は、年代順に、「旧石器時代」「縄文時代」「弥生時代」に区分されるということです。
旧石器時代(40,000年前頃~15,000年前頃)
「旧石器時代」とは、人類が石を砕いて作った打製石器や動物の骨などで作られた骨角器などの簡素な道具を用いるようになった時代です。まだ、土器は作られていません。
日本の旧石器時代は、以下のような時代です。
- 氷河期であり、寒冷な気候でした。
- 石を打ち砕いて作った打製石器などのような簡素な道具を用いていました。まだ土器は登場していません。
- 狩猟と採集によって食料を調達していました。農耕は行われていません。
- 移住生活を送っており、定住はしていませんでした。住居はテントのようなものや自然の洞窟などを利用していました。
縄文時代(15,000年前頃~紀元前10世紀頃)
「縄文時代」とは、人々が磨製石器や縄を転がして土器の表面に文様を施した縄文土器を使い始めるようになった時代です。
縄文時代は、以下のような時代です。
- 氷河期が終わり気候は温暖化し、自然環境が豊かになりました。海面は5メートル近く上昇し、日本列島は大陸と切り離されます(縄文海進)。
- 石を砂や別の石で磨いて作った磨製石器が用いられるようになりました。また、縄文土器も作られるようになります。弓矢なども作られていました。
- 食料調達は狩猟・採集が中心です。ただし、縄文時代晩期になると、すでに水稲をはじめとした農耕が開始されていました。
- 移住型の生活から定住生活に移行していき、人々は環状集落を作って生活するようになります。住まいは、洞窟などから竪穴式住居へと変わっていきます。
弥生時代(紀元前10世紀頃~3世紀頃)
「弥生時代」とは、農耕が本格的に開始された紀元前10世紀頃から前方後円墳などの古墳が出現するようになった古墳時代が始まる紀元後3世紀頃までの時代です。
弥生時代は、以下のような時代です。
- 石器だけでなく、青銅器や鉄器も使われるようになります。
- 食糧確保の中心的手段が狩猟・採集から水稲を中心とした農耕に移行します。それに伴い、生活様式も定住となります。
- 弥生土器は、縄文土器と比べ薄くて固く、実用的な形になっています。
- 水稲農耕の開墾や利水のため、人々は農耕指導者をリーダーとした集落を作るようになり、社会に階級が生まれます。
- より豊かな農地や貯蔵物などを求めて、集落同士が争うようになり、その中から小さな「国」が生まれ、その指導者は「王」となります。
- 弥生時代晩期には、全国に小国が乱立する状態になり、大乱が起きたこともありました(倭国大乱)。有名な国が、中国と国交を持った倭奴国や邪馬台国などです。
古代
日本の古代は、弥生時代に続く「古墳時代」から始まり、「飛鳥時代」「奈良時代」「平安時代」に区分されます。
古墳時代(3世紀頃~593年)
3世紀頃になると、各地の豪族たちは競って、前方後円墳のような巨大な墳丘をもつ墓を造営しました。この墓を「古墳」といい、古墳が盛んに造営されたことから、3世紀以降の時代を「古墳時代」と呼んでいます。
この時代、大和盆地周辺を根拠地として、畿内から北九州までの広域を支配するまでに拡大した勢力があります。この勢力は「ヤマト王権(政権)」と呼ばれています。そのため、この時代を「大和時代」と呼ぶこともあります。
ただし、この時代のヤマト王権は、広域を支配していたとはいっても、中央集権国家というほどではなく、ヤマトの大王をトップとする各地の豪族の連合であったと考えられています。
飛鳥時代(593年~710年)
「飛鳥時代」とは、一般的に、飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥周辺)に宮(皇居)や都が置かれた593年(推古天皇元年)から平城京に遷都された710年(和銅3年)までの時代を指します(諸説あります。)。
飛鳥時代の始まりである593年には、日本最初の女帝である推古天皇が即位し、その摂政に聖徳太子(厩戸皇子)が立てられ、ヤマト王権の大王中心の国家体制の礎が築かれます。
推古天皇・聖徳太子の死後、権勢をふるっていた豪族の蘇我氏親子が中大兄皇子や中臣鎌足らによって討たれると(乙巳の変)、日本最初の元号として「大化」が定められ、大王(天皇)を中心とした政治体制に変革されていきます(大化の改新)。
その後、中大兄皇子は天皇(天智天皇)に即位し、その天智天皇が亡くなると、その跡を襲った天武天皇や持統天皇によって、中央集権化が進められていきます。
701年には、日本最初の法令とも言うべき「大宝律令」が制定され、天皇を中心とした中央集権国家の体制を確立し、律令国家の基礎が築かれることとなりました。
奈良時代(710年~794年)
「奈良時代」とは、平城京(現在の奈良県奈良市・大和郡山市)に遷都された710年(和銅3年)から平安京に遷都された794年(延暦13年)までの時代を指します(諸説あります。)。
飛鳥時代に施行された律令制は、奈良時代になってより完成されていきます。それにより、人民は、戸籍によって把握されて租・庸・調・軍役などの重税を課せられ、貧困に苦しむことになります。
また、奈良時代は、次々と政争が発生します。藤原鎌足の次男である藤原不比等は、平城京遷都後に政権を握り、藤原氏の繁栄の礎を傷ことになります。不比等の子である藤原四兄弟も、皇族である長屋王を自殺に追い込むほどの権勢を誇りました。
藤原四兄弟が没した後も、皇族出身の橘諸兄、藤原仲麻呂、道鏡らが次々と現れて政権を争い、朝廷内で紛争が続いていくことになります。
他方で、文化的には、「天平文化」と呼ばれる仏教文化が開花し、東大寺法華堂などの仏教建築や、万葉集などの文学作品も生まれました。歴史書である古事記や日本書紀も、奈良時代に編纂されたものです。
平安時代(794年~1185年)
「平安時代」とは、平安京(現在の京都府京都市)に遷都された794年(延暦13年)から鎌倉幕府が成立した1185年(文治元年)までの時代を指します。
平安時代は、政治的権力が、天皇から上流の貴族へ、そして上流貴族から新たに登場した武士へと移り変わっていった時代です。
平安時代の前期は、桓武天皇から代々の天皇が、律令制を引き継ぎつつ、修正を加えながら律令制の再建を図ろうとした時代です。
しかし、上流の貴族が、大規模な荘園を背景に独自のな権力・財力を持つようになり、律令制による人民支配体制は限界を迎えます。
その結果、人民支配体制から土地課税体制への変革を余儀なくされ、地方政治は、権力を移譲された民間有力者である国司によって行われる「王朝国家体制」へと移行していきます。
また、地方政治の混乱や戦乱の頻発するようになると、土地の有力者たちは自衛のために武装するようになり、武士と呼ばれる存在になります。武士たちは、武家貴族や下級官人層を取り込んで、大規模な武士団を形成していきます。
平安時代中期になると、大規模荘園で権力を蓄えた藤原氏が、他氏を次々と追い落として摂関政治を行うようになり、政権をほとんど掌握するようになります。藤原氏の権勢は、天皇をしのぐほどになり、藤原道長の代に絶頂を迎えます。
平安時代後期には、藤原氏の影響力は徐々に失われていき、上皇が天皇に代わって政治を行う院政が開始されるようになります。
この頃から皇室や貴族の間での紛争が武力的に解決されるようになり、これに介入した武士の地位が上昇します。そのような中から台頭してきた武士勢力が、源氏や平氏です。
平氏は、平清盛の代に、保元の乱・平治の乱を勝ち抜き政権を掌握し、日本で最初の武家政権を打ち立てることになります。
中世
日本の中世は、平安時代に続く「鎌倉時代」から始まり、「南北朝時代」「室町時代」「戦国時代」に区分されます。
ただし、前記の「平安時代後期」を日本の中世の始まりとする見解もあります。また、「安土桃山時代」を中世に含めるか、それとも近世に含めるかについては諸説あります。
鎌倉時代(1185年~1333年)
日本最初の武家政権として誕生した平氏政権ですが、貴族や寺社と対立し、多くの反対勢力を生み出しました。そのため、各地で反抗が勃発し、清盛の死後わずか3年で終焉を迎えます。
平氏に代わって新たな政権を樹立したのが、源氏です。源氏の棟梁であった源頼朝は、1184年、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、翌1185年には、朝廷から全国に守護・地頭を設置・任免する権限を与えられます(文治の勅許)。
この守護・地頭の設置権限を授与された1185年をもって鎌倉時代の始まりとするのが、一般的な見解です(ただし、頼朝が東国支配権を認められた1183年を始まりとする見解もあります。)。
その後、頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼし、1192年、征夷大将軍に任命され、名実ともに新たな武家政権が確立します。この武家政権を「鎌倉幕府」と呼び、鎌倉幕府が政権を担っていた時代を「鎌倉時代」といいます。
頼朝の死後、2代将軍源頼家、3代将軍源実朝と続きますが、そこで源氏の嫡流は途絶えます。実朝の死後、北条義時が執権として幕府の政権を掌握します。
北条義時の後を継いだ北条泰時は、武家を対象とする法令である御成敗式目を制定するなどし、以降は、源氏嫡流でない将軍を名目として置きつつ、北条氏が執権として政治を司る執権政治体制を確立しました。
5代執権北条時宗の時代には、当時、世界帝国を築いていたモンゴルの王朝である元による2度の日本侵攻(元寇)が発生しますが、いずれも撃退に成功しています。
しかし、執権家の専制や災害・大飢饉の頻発に伴う混乱などが続き、幕府に不満を持つ武士や公家が増え始めると、後醍醐天皇は討幕運動を開始します。
そして、後醍醐天皇の討幕運動に呼応した悪党と呼ばれる武士集団が各地で反乱を起こすようになり、ついには、幕府側の重鎮であった足利高氏(尊氏)も後醍醐天皇側に付き、足利勢は、幕府の西国統治の要地である六波羅探題を陥落させます。
六波羅陥落の翌日、後醍醐天皇に呼応して上野国で挙兵した新田義貞は、関東御家人の支持を得て鎌倉に侵攻し、これを陥落させ、鎌倉幕府・北条得宗家は滅亡するに至りました。
建武の新政(1333年~1336年)
1333年、鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇は、帰京すると「建武の新政」を開始し、改革に着手します。
しかし、足利尊氏が新政から離反すると、後醍醐天皇と尊氏は対立するようになります。尊氏は、一時敗れて九州に敗走しますが、再び挙兵して後醍醐天皇側の新田義貞や楠木正成の軍を破り、光厳上皇を奉じて入京します。
そして、敗れた後醍醐天皇と和議をして、三種の神器を光厳上皇の弟である光明天皇に譲らせます。こうして、建武の新政は瓦解します。
南北朝時代(1336年~1392年)
後醍醐天皇側との戦いに勝利した足利尊氏は、光明天皇を即位させ、自らは建武式目を制定して幕府を開きました。この幕府は「室町幕府」または「足利幕府」と呼ばれます。
他方、敗れた後醍醐天皇は、京都を脱出して奈良の吉野へ逃れ、光明天皇に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではないと主張して吉野に独自の朝廷(吉野朝廷)を開きました。
こうして、日本に光明天皇を擁立する室町幕府と吉野朝廷という2つの政権が誕生します。室町幕府方の朝廷を「北朝」、吉野朝廷を「南朝」と呼び、2つの政権が併存する時代を「南北朝時代」と呼びます。
南北朝時代の始まりは、後醍醐天皇が南朝を開いた1336年からとされています。以降、北朝と南朝による内乱が続いていくことになります。
南北朝時代が終結するのは、室町幕府3代将軍足利義満の時代です。1392年、義満の斡旋により、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡して南北朝が合体し(明徳の和約)、南北朝時代は終焉を迎えます。
室町時代(1336年~1573年)
「室町時代」は、前記の南北朝時代や後記の戦国時代を含む時代です。南北朝時代や戦国時代を除く間の時代のみを室町時代と呼ぶ区分もあります。
前記のとおり、足利尊氏が建武式目を制定して室町幕府を開府した後、南北朝の争いが始まります。尊氏は、1338年、北朝によって征夷大将軍に任じられますが、内乱は終息していません。
3代将軍足利義満の代になり、ようやく南朝勢力が弱体化し、明徳の和約により南北朝が合一され、南北朝時代は終焉します。これにより、室町幕府の権力は確立されることになったのです。
しかし、幕府の安定は長く続かず、義満が急死した後は、6代将軍義教が強硬的な政策を敷いたため、臣下に暗殺される事件などが起こり、幕府の権威は徐々に失墜していきます。
さらに、大規模な飢饉や天災により下級武士や庶民の不満が増大し、各地で土一揆が頻発し、幕府の権威はさらに失墜することになりました。
そして、幕府の権威を完全に失墜させることになったのが「応仁の乱」です。
もともとは、管領家の畠山氏と斯波氏の家督争いでしたが、これに将軍後継問題も絡んでくると、幕府の実力者である細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名の抗争となり、さらには、幕府勢力が東西に分かれて争い合う戦乱にまで発展していきました。
この応仁の乱は11年間も続き、戦場となった京都は壊滅的被害を受けることになります。また、戦乱は各地にも飛び火し、時代は戦国の世に移り変わっていきます。
そして、1573年(元亀4年)、戦国時代を勝ち抜いていた織田信長によって15代将軍義昭が京都から追放され、室町幕府は幕を閉じることになります。
戦国時代(1467年~1573年)
「戦国時代」の区分は、非常にさまざまな見解があります。ここでは一応、始期を応仁の乱が始まった1467年(応仁元年)とします。
前記のとおり、応仁の乱により全国各地に戦乱が広まっていきます。
応仁の乱の後、細川政元らがと言われるクーデターを起こし、室町幕府10代将軍義稙を追放して、11代将軍に義澄を据えるという事件(明応の政変)を起こします。
これにより、将軍家は義稙系と義澄系に分かれて対立し、その対立がそのまま全国各地の抗争につながっていきました。
戦乱の拡大により、幕府の権威は完全に失墜し、実力主義の社会が到来します。各地でそれぞれの領国を一元的に支配する「戦国大名」が生まれ、互いに争いあう群雄割拠の時代となっていくのです。
そのような戦国大名の内で特に勢力を拡大していったのが、尾張の織田信長でした。信長の家は尾張守護代織田氏の庶流に過ぎませんでしたが、桶狭間の戦いで今川義元を破り、以降次々と勢力を拡大して、ついには15代将軍足利義明を奉じて上洛を果たします。
室町幕府の再興に協力した信長でしたが、次第に信長と義昭は対立するようになり、最終的に信長が京都から義昭を追放し、室町幕府は終焉を迎えます。
戦国時代の終期についても諸説あります。ここでは一応、室町幕府が滅亡した1573年(元亀4年)を終期とします。
中世~近世:安土桃山時代(1573年~1603年)
「安土桃山時代」とは、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代です。
信長の居城が安土城であり、秀吉の居城伏見城が桃山丘陵(現在の京都市伏見区桃山町)にあったことから、安土桃山時代と呼ばれています。また、織田と豊臣の名前から「織豊時代」と呼ばれることもあります。
安土桃山時代の時代区分には諸説あり、中世に含まれるとするもの、近世に含まれるとするもの両説があります。
前記のとおり、足利義明を追放して室町幕府を滅ぼした信長は、新たな政権の主宰者となります。しかし、実際には、まだ信長に抵抗する勢力は多く存在しており、天下を統一したわけではありませんでした。
もっとも、信長はすでに日本の中心地である畿内のほぼ全域を支配しており、天下統一に最も近い存在であったことは確かでしょう。
しかし、1582年、信長は、家臣の明智光秀に謀反され、本能寺で自害します(本能寺の変)
信長の家臣であった羽柴秀吉は、他の有力家臣に先んじて明智光秀を討伐し、柴田勝家などのライバルを破って、信長の後継者としての地位を固めます。
1586年には、関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、1590年には、関東の北条氏(後北条氏)を滅ぼして天下統一を果たします。
しかし、秀吉の死後、石田光成ら文治派と福島正則ら武断派とが対立し、この対立に乗じて、大老の一人であった徳川家康が武断派を取り込み、政権の主導権を握るようになります。
石田光成と徳川家康の対立は日本全国を巻き込む対立となり、1600年(慶長5年)、石田光成が率いる西軍と徳川家康が率いる東軍は、関ヶ原で雌雄を決することとなります。
この関ヶ原の戦いに勝利した家康の権威は豊臣家をしのぐようになり、家康は新たな政権の基盤を整えていきます。そして、1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に任じられ、新たな幕府(江戸幕府)を開府することとなり、豊臣政権は終わりを迎えることになるのです。
近世:江戸時代(1603年~1868年)
日本の近世に当たるのは「江戸時代」です。江戸時代とは、徳川家康が江戸幕府を開府した1603年から一世一元の詔により元号が明治に改元された1868年(明治元年)までの時代を指します。
1603年に征夷大将軍に任じられて幕府を開府した徳川家康は、大阪の陣で豊臣家を滅ぼし、以降200年以上に及ぶ長期安定政権の礎を築きます。
この時代は、戦乱が起こらず社会が安定しているため、経済は大幅に発展し、貨幣経済が農村部にまで浸透するようになります。産業も多様化し、江戸は、人口100万人を超える世界的にみても最大規模の都市にまで発展しました。
しかし、そのような平和な時代を脅かす出来事が発生します。1853年(嘉永6年)、浦賀にマシュー・ペリーを提督とするアメリカ合衆国の黒船が来航したのです。
すでに産業革命を果たしているアメリカの黒船の威力に屈した幕府は日米和親条約を締結させられます。また、同様の条約を、他の西洋列強にも結ばされ、それまで鎖国主義を採っていた幕府は、事実上開国を余儀なくされました。
このような幕府の弱腰を批判する世論が沸き起こり、その精神的支柱として天皇の存在がクローズアップされるようになります。そのため、平穏だった京都は、幕末の動乱の中心地になっていきます。
幕末の動乱を経て、雄藩と呼ばれた薩摩藩と長州藩は倒幕のための同盟を行い(薩長同盟)、「尊王攘夷」の旗の下、土佐藩、肥前藩を巻き込んで、幕府と対決するに至ります。
1867年(慶応3年)、15代将軍慶喜は、薩長の先手を打って、政権を朝廷に返上します(大政奉還)。その目的は、内戦を回避しつつ、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体体制を樹立することにありました。
しかし、薩長を中心とする新政府軍は、討幕の意思を崩さず、翌1868年(慶応4年)鳥羽伏見で幕府軍と交戦し、これに勝利します。
その後、薩摩の西郷隆盛と幕府の勝海舟との会談により、江戸城は無血開城により新政府に引き渡され、江戸幕府は名実ともに崩壊します。さらに、一世一元の詔が発せられて元号が「明治」に改元されました。
近代:明治維新~第二次世界大戦(1868年~1945年)
日本の近代は、1868年の明治維新に始まり、第二次世界大戦が終結する1945年(昭和20年)までの時代を指します。元号で言えば、「明治」「大正」「昭和」の時代です。
明治時代は、天皇を中心とした新国家体制がスタートします。戊辰戦争や西南戦争といった内乱を経て、維新の目的である近代化が進められていきます。
対外的には、日清戦争、日露戦争に勝利して各国との間で不平等条約の是正に成功し、西欧列強と並ぶ近代国家作りの目的は一応達成されることとなります。
また、大日本帝国憲法が制定され、制限選挙が実施されるなど、近代国家として整備されていきます。
大正時代には、ヨーロッパにおいて第一次世界大戦が勃発します。イギリスと同盟をしていた日本は、同盟国として参戦し、戦勝国として扱われます。
また、25歳以上の成人男子全員に選挙権を認める普通選挙が実施されるなど、民主主義に発展も見られました(大正デモクラシー)。
昭和時代になると、ウォール街大暴落から世界恐慌が始まり、日本にも恐慌が波及します。軍部が暴走して満州事変を起こし、日中戦争へと拡大していきます。
ヨーロッパでは、第二次世界大戦が勃発します。日本はドイツ・イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結しますが、アメリカやイギリスなどとの関係が悪化します。
そして、ついに日本はアメリカとの太平洋戦争が開戦となり、第二次世界大戦に参戦することになります。
その後の結果はご承知のとおりです。日本は各地で敗れ、2発の原爆を落とされ、多くの国民を失て敗戦となり、1945年、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏します。
現代:第二次世界大戦終結以降(1945年~現在)
第二次世界大戦終結後の時代が、日本の現代とされる時代です。元号で言えば、「昭和」「平成」「令和」の時代です。